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やきそばの「豆知識」 やきそばの歴史

 今は一般的に食される「やきそば」はいつ頃から食されるようになったのでしょうか。
 はっきりしたことは分かりませんが、第二次世界大戦後になってからだと思います。
  戦争中多くの方々がアジア地域に出兵し、様々な地域の食文化に触れてきました。そして、終戦を迎えて戦地より引き上げた後、産業の勃興に伴うアイデアとして異国の文化を吸収してきた多くの若者が 新しい食文化の形成に寄与した結果生まれてきた食品だと思います。
 では現在の焼きそばに至るまでの過程はどったのでしょうか。
  昭和初頭より「中華そば」または「支那そば」として新しい麺文化がに芽生えてきていましたが、そのころはまだ、ソースやきそばの出現には至っておりませでした。

【余 談】ウスターソースの歴史

 余談になりますが、ウスターソースの歴史は意外と浅く、19世紀初頭、ロンドンの北西180kmほどのイングランド中央部・ウイスターシャー州の州都ウイスター市に住む主婦が考案して誕生したので、ウスターソースと呼ばれるようになりました。
 日本への伝来は、江戸時代の末期と言われていますが、明治時代後期に、産業的にも本格的に生産が開始されました。それは、日本の 醤油会社の社長がイギリスを訪れた際、ウスター ソースを気に入り、新し い醤油として1885年 に日本で発売したことを言います。
 昭和49年には、ウスターソース類のJAS規格が制定され、洋食の普及と共に私たちの食生活に深く根づいています。

【重 要】麺の腰・カン水の話

 炭酸ナトリウムや炭酸カリウムなどを含むアルカリ性の水。麺をこねるときに加えると、ラーメン独得の黄色い色、コシや風味などが生まれ、中華麺にはなくてはならないものとされています。もともとは水の中に焼却灰を入れ、その上澄みを利用しましたが、現在では化学的に成分を調合して作られるものがほとんどです。
 麺の腰と言われるシコシコ感はカン水の濃度や加水率によって決定します。加水率は、麺に含まれる水分の割合のことです。ラーメン麺の場合、一般的に、加水率が低いほど麺がスープを吸収するためのびやすく、高いほど柔らくモチモチした食感になり、機械製麺上ではカン水加水率が高いほどこねにくく、低いとこねやすいとされています。一般的には35%前後の加水率の麺が多いようです。

【食を求めて開発】やきそば麺

 大正13年カン水の業者が横浜と東京・深川に開業し、麺に腰を付け、歯ごたえという食感をプラスしたことが、現在の麺文化に繋がったことは確かだと思います。
 戦後、弊社がそうであったようにむ多くの麺業者が「そば・うどん・そうめん」を乾麺として製造していました。新しい麺「中華麺」も同様で流通・保存を考えると生めんでは対応できない時代でもあったと思います。
 そんな中、昭和26年頃に台湾のビーフン」の食感を求め開発された「蒸し麺やきそば」は、簡単に調理ができ、保存性に優れている麺として誕生しました。
 様々な文化が交差して誕生した「やきそば麺」は、醤油ではなく、ウスターソースという新しい味として地域の味付けによって富士・富士宮で発達していきました。製法については各工場の特徴を生かし、消費者のニーズに応えする形で現在に至っています。


やきそばの「豆知識」 やきそばの地域的発達

 富士山の麓の富士・富士宮地域は岳南地域といます。昭和30年代旧吉原市を中心に製紙業が盛んな町として繁栄しました。製紙工場に必要な周辺産業として鉄工所が発達し、それに伴って、機械を扱う産業が吉原・富士・鷹岡に集まってきました。その頃から急激な人口増加によって、山間部の造成が行われ団地も沢山できました。 昭和30年代の旧吉原市は活気に満ちた町へ変貌していきました。
 各学校区では、 子供たちが増え、いろいろな場所に子供たちを相手にする駄菓子屋兼焼きそば屋さんも町のおばちゃん達によって沢山できて行きました。
 専業主婦の時代、 おばちゃん達は意欲的に商売に乗り出していったのだと思います。何よりも鉄工所が沢山ある街ですから、知り合いからどんな寸法の鉄板でも、即、手に入る環境が追い風になったのだと思います。
 食に貪欲な時代、低料金でお腹が満たされる「やきそば」は青年や子供たちにとっておやつ代わりとして大好評となり、町の発展と共に焼きそばの文化が芽生え、家庭でも主食として食されるようになりました。
 この頃の青年・少年が 「やきそば第1世代」だと思います。
 昭和39年当時(旧吉原市)はコロッケ10円、やきそば30円、ラーメン60円だったと 思います。そんな中「肉入りやきそば」は80円と高級品でした。でもやきそばには「肉カス」や「天カス」が入っているため、肉を食べたような感触と味で大満足したを記憶しています。
その頃の町の情景を想いだすと「夕日とやきそば」がセットになり、橙色に包まれる暖かさと寂しさが入り混じった感じで、友だちと夕方近くまで遊び「カラスが鳴くから帰ろう」と言い合って、腹ペコで帰宅したものです。今になって思うとラードとソースの焦げた鉄の匂いも、懐かしさで鼻腔が充満されます。

 昭和40年代になり、「やきそば第2世代」の始まりです。物流も良くなり、肉の代用品であった肉カスの時代も終焉する時がきます。共働きが浸透するにつれ、 おばちゃん達が経営していた「町のやきそばやさん」は激減し、やきそば店の第2ステップとして、専門店の時代が到来します。
 様々な具が用意され、店も大きく、きれいになり、自分で焼くセルフスタイルも登場し、自分の作る「やきそば」こそが最高と焼き方にこだわりを持つようになりました。
 ソースもメジャーなソースではなくて、マイナーなソースであることや、ウスターとケチャップのブレンドされたソースなど、創意工夫がなされ、味へのこだわりも 生まれてきました。
 「スタイルと具の時代」とともに子供たちの溜まり場から青年の居場所へやきそば店が変貌し、「やきそば第2世代」は誕生したと思います。

 昭和50年代、レジャーの多様化の波は「やきそば第一世代」に光を与えてくれました。
バーベキューの主役として「やきそば」は復帰し、焼きそば専門店では味わえないオリジナルなこだわりのやきそばが野外で食されるようになったのです。
 家族で楽しむバーベキューは、昔懐かしい「おばちゃんの作り方」と「自分たちのこだわり」が融合して世代を超えて、子供たちにオリジナルなやきそばの作り方が伝承され、「やきそば第3世代」が誕生しました。
 その結果、肉カスも当然のごとく復活しました。肉の代用品でなく、具の主役として一翼を担うものとなり、富士宮地域では「焼きそば=肉カス」となりました。
 富士地域では「天カス」を入れてやきそばを仕上げる伝統は、料亭仕上げとして大変な支持を受けています。
 岳南地域にとって「やきそば」は地域の発展の象徴であり、文化そのものとなったのです。
 そして「富士宮焼きそば学会」の発足により、全国に岳南地域の焼きそばが発信されました。
 やきそばの発展は、富士宮を含む岳南地域といったほうが良いかもしれません。
 バーベキューのときに鉄板の自慢から始まり、やき方、キャベツの切り方、具の内容など、大の大人たちが真剣に語り合う様はこの地域ならではのものと思います。


やきそばの「豆知識」 やきそばのおいしさの追求

焼きそば鉄板編

火力は強火がいいと思います。造り方の基本は「おいしい焼きそば」を参考にしてください。
さて、蒸し方ですが、水で蒸すのが一般的ですが、ダシ水にするとコクが増します。
ビール蒸し、酒蒸しなども 好評です。
具は野菜と肉類 又は魚介類など何でもOKです。
ソースはウスターソースにケチャップやマヨネーズ・マスタードなどを混ぜると今までと違った味が楽しめます。
仕上げは天カスが良いと思います。
オリジナルな絶品のやきそばをお楽しみください。

焼きそばフライパン編

基本は具を炒めてから・麺を入れます。そして蒸し焼きにします。
水分が無くなるまで頑張ってください。
後は、焼きそば鉄板編と同じです。
オリジナルな貴方だけの焼きそばを造ってください。

驚きの焼きそばラーメン編

チキンスープ(即席でOK)にお好きな具を炒めて入れて味を調えます。
そして、やきそば麺を入れて1分程度煮込みます。
それだけで、タイ風ラーメンが出来上がります。
通常のラーメンでは味わえない食感とさっぱり感が最高です。